NHK Program No. 3568 2014 Oct 21

No.35682014年10月21日(火)放送
李香蘭 激動を生きて

李香蘭 激動を生きて

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女優 李香蘭 日本と中国の狭間で

映画資料の管理・収集を手がける国立近代美術館フィルムセンターです。
ここに、山口さんの代表作のオリジナルフィルムが残されていました。
1940年に公開された映画「支那の夜」です。
日本人であることを隠し、中国人として出演したこの映画。
記録的な興行成績を上げた女優、李香蘭としての代表作です。
山口さんと共に李香蘭の自伝を執筆した、ジャーナリストの藤原作弥さんです。
ジャーナリスト 藤原作弥さん
「歌、その歌がね、上手だし、いい歌だったもんだから、ゲリラ戦をやっていた共産党の人たちも洞穴で見たとか、北朝鮮の初代の主席の金日成も満州で見たと言ってました。
それほどヒットしたんですね。」

今回、私たちは、晩年の山口さんの肉声が収められた貴重な記録を入手しました。
映画史の研究のために行われたインタビュー。
当時86歳だった山口さんが語っていたのが「支那の夜」に出演したことへの罪の意識でした。
山口淑子さん
「なぜ出たんだろう、あんな映画がなかったら良かったのにと思う。
今、余計にそう思います。」

山口さんは1920年、中国東北部の旧満州に生まれました。
幼いころから語学力にたけ、自在に中国語を操りました。
家族で交流していた中国人から与えられたのが、李香蘭という中国名でした。
日本と中国はともに山口さんのルーツだったのです。
山口淑子さん
「日本こそ戸籍がありますから祖国で、(私が)生まれ育ったふるさとは母国で、中国なのです。
どうしてもふたつの国を愛さなくてはいけない、運命づけられているんですね、私。」

しかし、少女の人生は日本と中国のはざまで引き裂かれていきます。
1937年に始まった日中戦争。
日本は中国の主要都市を次々と攻略し、支配地域を広げていきました。
新聞や映画などで戦争を正当化しようとする日本軍。
目をつけたのが、美貌を持ち語学にもたけた山口さんでした。
山口さんが繰り返し演じたのは、日本に反感を持つ中国人の少女。
誠実な日本人男性にひかれ、次第にその態度を改めていくという役どころでした。
代表作「支那の夜」もその1つでした。
李香蘭の自伝を出版した藤原さんです。
執筆当時67歳だった山口さんは、この時まで李香蘭の映画を見返したことは一度もありませんでした。
2人で「支那の夜」を見た藤原さんは、その時の山口さんの姿に驚いたといいます。
ジャーナリスト 藤原作弥さん
「そばにいて、その震えが伝わるような感じで、私もその気持ちは伝わってきました。」

当時、戦争の大義として「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」ということばが盛んに使われていました。
乱暴な支那・中国を懲らしめよという意味でした。
山口さんは、みずからが演技を通じてそのメッセージを体現していたことを改めて突きつけられたのです。
ジャーナリスト 藤原作弥さん
「無邪気に何も知らないまま歌手になり、映画女優になっていったんですが、つまりイノセントだったはずなんだけど、実は純粋無垢じゃなかった。
結果としてやったことは、ある罪を犯した、その反省ですよ。」

「支那の夜」から5年、多くの命が奪われた戦争が終わりました。
日本に協力した中国人として、中国の国民党政府から銃殺刑を求刑されたという山口さん。
その寸前で日本人であることが証明され、生きて帰国することができました。
しかし、一緒に映画を制作した仲間の中国人たちは、祖国の裏切り者として次々に処刑されていったのです。
山口淑子さん
「日本人に都合のいい中国の娘の、満州の娘の役を私はやっていたわけですね。
それに一枚加わっていた李香蘭っていう人間が私は本当に許せないし、中国の人からみても絶対に許せない存在であった。」

中国人女優として映画に出演したことで、山口さんが背負った罪。
帰国後、山口さんはしばらく映画に出演したあと、スクリーンから姿を消しました。

山口淑子さん 戦争の“傷”を見つめて

罪の意識を抱え続けていたという戦後、山口さんはどのように歩んだのか。
生前、一度も撮影が許されなかった自宅には、山口さんの足跡が数多く残されていました。
元秘書 寒川一郎さん
「先生の歴史の詰まった写真ばかりですね。」

秘書として長年山口さんを支えてきた、寒川一郎さんです。
終生こだわり続けたのは、戦争の悲劇を繰り返させないことだったといいます。
元秘書 寒川一郎さん
「平和というのは、ただくれるものではなくて、少しでも自分で出来ることがあればと常に持っていらっしゃったと思います。」


山口さんは49歳の時、ジャーナリストとして再び人々の前に姿を現しました。
山口さんが目を向けたのが戦場。
ベトナム、そして中東でした。
女性ジャーナリストが少なかった時代。
山口さんは戦場に何度も赴き、弱い立場にある人々のことを自分の目で確かめ伝えようとしたのです。
「この子を日本に連れて帰ってください。」
中東の難民キャンプでは人々から親しみを込めて美しい人=ジャミーラと呼ばれるようになっていました。
山口さんの中東取材に同行した、映画監督の足立正生さんです。
後に山口さんと共にまとめた取材記録。
山口さんは、みずからが果たすべき役割を問い続けていたといいます。
映画監督 足立正生さん
「この出だしの部分ですよ、一番印象に残っているのは。」

“私は、自分の心の傷をいやすために、わざわざ戦場に来ているのではない。
その傷をもうこれ以上増やさないために、もう、あの中国大陸の戦場から逃げ出した時の傷を、新しく生まれた戦場の上に傷跡として残したくないために来ているのだ。”

映画監督 足立正生さん
「彼女がかつて戦前から戦中、中国で味わった、中国の友人や人々と共に過ごした時代の苦難の生き方とつながったところから考えているんだなというのが、すぐ感じられるような。
本当にシンパシーというものを感じているんだなと思いました。」

戦争に人生を翻弄された人々に、まなざしを向け続けた山口さん。
晩年の山口さんと行動を共にしていた人がいます。
国際法学者の大沼保昭さんです。
70歳を過ぎてからの山口さんは、大沼さんと共に、いわゆる従軍慰安婦の問題の解決に力を注ぎました。
東京大学名誉教授 大沼保昭さん
「やっぱり同世代の女性が、なんでこういう苦しみを背負った人生を送らなきゃなんなかったのか、その不条理ですよね。
何としてでもこの人を励まして、助けてあげなきゃという思いが非常に強かったと思うんですね。」

山口さんは1人の元慰安婦と電話や手紙で交流を続けていました。
2人を結び付けたのは、出演したことを後悔し続けていた映画、あの「支那の夜」でした。
李香蘭が川辺で花と戯れる何気ないシーン。
当時、慰安婦だったその女性は、この撮影現場を訪れていました。
慰安所を出て、遠くから李香蘭の姿を見つめ続けていたという女性。
その時のことを事細かに山口さんに語りました。
山口淑子さん
「桃の花か何かで歌を歌っていたんですよ。
『李香蘭のロケがあるよ』って聞きつけて、遠回りになった中の一人として見ていたんですよ、私の撮影を。
ずいぶん境遇が違ってね、大変なときに私にお会いになったんだなぁと思ってました。」

戦争の時代を全く違う立場で生きた2人。
交流は元慰安婦の女性が亡くなるまで続きました。
東京大学名誉教授 大沼保昭さん
「元慰安婦の方の愚痴とか、あの悲しみとかですね、怒りというものを電話でぶつけられて、それを慰めて自分も泣いてですね、命の電話と言ってもいいかと思いますけど、それを通してずっとやられた、亡くなるまでやられた。」

山口淑子さん 次世代へのメッセージ

今、李香蘭の映画を通してあの時代を学ぶ授業が行われています。
山口さんの激動の人生を語り合うのは、日本と中国の若者たちです。
中国人留学生
「実は中国人、ネットでコメント見たら李香蘭のことは好きです。」

中国人留学生
「私にとって、たぶん日本を中国に侵略正当化を美化する映画だと思います。」

日本人学生
「ある意味、本当にその五族協和っていうか、本当に良いことなんだって信じ込んでいる感じも受けたんですね、見ている中で。」

山口淑子さんの94年の生涯。
今回入手した記録の中に、次世代への遺言ともいうべきことばが残されていました。
山口淑子さん
「私たちみたいに戦争の真っただ中で矛盾に満ちていた人生と違いますから、これからは皆さん方、戦争を知らない世代の方は本当に本音で話をして、戦争の話もぶつけ合って、それでそれは乗り越えて、本当の友情をつくっていってほしいというのが私の願いです。」

激動を生きて 李香蘭のメッセージ

ゲスト谷川建司さん(早稲田大学客員教授)

●山口さんはどんな方だった?

そうですね、まず最初の印象というのが、彼女の持つエネルギーに圧倒される。
普通、86歳にもなると、もう枯れていてもおかしくないけれども、そのエネルギーにこちらがたじたじになってしまう、それだけの方、パワーを持っている女性だなと感じました。

●女優・李香蘭に対し、許せないと言い切っていたが?

それはもう、恐らく、ただ当時はもう、渡された台本に書かれたせりふを読むだけで何も考えてなかったと。
自分の出た映画を見る機会もない、撮影が終わればもうすぐ次の映画ですから、ただそれがあとになって、その自分の演じてた役が、どれだけ中国人の人を傷つけたのかということに気が付いた瞬間が来たと思うんですね。
そこから、それは恐らく彼女が李香蘭時代の最後のころに、中国人の記者から記者会見で、なんでそういう映画に出るんだということを言われて気付く。
そのことが、彼女のそれ以降の、戦後の人生の自分の本来の李香蘭という名前を取り戻すために、しょく罪のための闘いをしなきゃいけないという、そのモチベーションになっていったと思いますね。

●戦後、ハリウッドの映画に自分が出たときに日本人が受けた印象、彼女にとっては衝撃だった?

そうですね、ブロードウェイの舞台に立ち、ハリウッドの映画でも、ヒロインを演じているわけで、それはもう日本人の女優としては、けうなことなんですけれども、ただ、戦後のアメリカ映画で彼女が演じた役は、日本人には受け入れられないものだったわけですね。
今まで戦時中は中国が日本に従う、その従ってくれる女性の役を演じていた。
それが今度は、アメリカに従っていく女性の役を演じることに、日本人の観客は当時それを受け入れなかった。
そのことがさらにまた彼女を傷つけた。
ただ彼女のすごいところは、いろいろ失敗をしている、図らずも人の心を傷つけてしまった、でもその失敗に気付いたときに、それを逆にエネルギーに変えて、次の自分の行動のためのエネルギーにしていくところじゃないかと思うんですね。

●元慰安婦への支援、その思いとは?

それは先ほどのVTRの中でもあった、あとになってから自分が「支那の夜」という映画に出ている時に、それを遠巻きに眺めていた人の中に、慰安婦の方がおられた。
その方が訪ねてきた。
撮影していた時は、全くそんな方が見てるなんて思ってもいないけれども、自分は女優としてちやほやされていたけれども、同じ時に、自分と同世代で、これだけひどい目に遭っていた方がいた。
そのことに気付いてしまった以上、なんとか自分でそれに対してアクションを起こさなきゃいけないという、その行動力がやっぱりあったんだと思うんですね。
ものすごくシンプルな、あっ、これは悪いことだ、そのことに自分は今気付いた。
だから、それを是正するために、自分に何ができるのかというのが、彼女の行動の論理だったように思います。

●「本当の友情をつくってほしい」という山口さんの次世代へのメッセージについて

日本の学生も中国の学生も、あまり歴史について深く考えてみるということをしたことがない、若い人たちが多いと思うんですね。
それをああいう、彼女の出た古い映画を見せて、満州国っていうのは、当時そこに暮らしていた人たちにとっては、こういう世界だったはずなんじゃないのかなという、違った視点からものを見ること、そういう機会を与える。
それは僕は大学の教員としてそういうことをやっていかなきゃいけないし、山口さんが後世に託したいことというのは、そういう、相手の立場でものを考えてみる、そうするとお互い、より理解できる。
そのことを、続けていってほしいということだったと思います。
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李香蘭 激動を生きて

Li Xianglan living in turbulence

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Actress Li Xianglan between Japan and China

The National Center for Modern Art Film Center, which manages and collects movie materials.
Here, the original film of Yamaguchi-san's masterpiece was left.
It is the movie “Night of China” released in 1940.
This movie was hidden as a Japanese and appeared as a Chinese.
This is a masterpiece as an actress, Li Xiang Lan, who has made a record performance.
I am a journalist Sakuya Fujiwara who wrote an autobiography of Li Koran with Mr. Yamaguchi.
Journalist Sakuya Fujiwara “Song, the song was good, it was a good song, so the Communist Party people who were fighting the guerrillas also saw in the cave, Kim Il Sung, the first president of North Korea Also said he saw it in Manchuria.
That was a big hit. "

This time, we got a valuable record of Yamaguchi-san's real voice.
An interview conducted to study film history.
Mr. Yamaguchi, who was 86 years old at the time, was guilty of appearing in “China Night”.
Reiko Yamaguchi “I wonder why it came out and I wish I hadn't had such a movie.
I think so much now. "
Mr. Yamaguchi was born in 1920 in the former Manchuria in northeastern China.
Since I was a child, I have been able to speak Chinese as much as possible to improve my language skills.
The Chinese name given by a Chinese who had a family exchange was Li Xianglan.
Both Japan and China were Yamaguchi's roots.
Ms. Reiko Yamaguchi “Because Japan has a family register, my home country was my home country and my home country was China.
You must love the two countries, you are destined, I am. "
However, the girl's life is torn between Japan and China.
The Sino-Japanese War that began in 1937.
Japan has captured the main cities of China one after another and expanded its territory.
Japanese forces trying to justify the war with newspapers and movies.
I noticed Mr. Yamaguchi who had a good look and was good at language studies.
Mr. Yamaguchi repeatedly performed a Chinese girl who was reluctant to Japan.
It was the role of a sincere Japanese man who gradually changed his attitude.
The masterpiece “Night of China” was one of them.
Mr. Fujiwara published the autobiography of Li Xianglan.
Mr. Yamaguchi, who was 67 years old at the time of writing, had never looked back on Li Xianglan's movie until this time.
Mr. Fujiwara, who saw the “Chinese Night” together, was surprised by the appearance of Mr. Yamaguchi.
Journalist Sakuya Fujiwara “I felt like I was by my side and the tremor was transmitted.”
At that time, the word “violent punishment” was widely used as a cause of war.
It meant to discipline violent China and China.
Mr. Yamaguchi was once again pointed out that Mizuha embodyed the message through acting.
Journalist Sakuya Fujiwara “Innocently I became a singer and a film actress without knowing anything, but it should have been innocent, but it was not pure.
What we did as a result was a reflection of a sin. "

Five years have passed since the “China Night”, and the war that killed many lives was over.
Mr. Yamaguchi, who was asked to shoot by the Chinese National Party government as a Chinese who cooperated with Japan.
I was proved to be Japanese just before that and was able to return home alive.
However, the fellow Chinese who made the movie together were executed one after another as traitors of their homeland.
Ms. Atsuko Yamaguchi “I was playing the role of a Manchurian daughter, a Chinese daughter that is convenient for Japanese people.
I couldn't forgive a person named Li Xianglan, who was added to it. "
The crime that Mr. Yamaguchi carried as a Chinese actress.
After returning to Japan, Mr. Yamaguchi disappeared from the screen after appearing in a movie for a while.

Atsuko Yamaguchi Staring at the “wounds” of the war

How did Mr. Yamaguchi walk after the war that he was guilty of guilt?
Many of Yamaguchi's footprints were left in his home, where he was never allowed to shoot.
Former secretary Ichiro Samukawa “It ’s all about the teacher ’s history.”
Ichiro Samukawa has been supporting Yamaguchi for many years as a secretary.
It is said that what I kept sticking throughout my life was not to repeat the tragedy of war.
Former Secretary Ichiro Samukawa “Peace is not just something that you can give me, but I always have something I can do for myself.”


Mr. Yamaguchi appeared again in front of people as a journalist when he was 49 years old.
Mr. Yamaguchi turned to the battlefield.
Vietnam and the Middle East.
An era when there were few female journalists.
Mr. Yamaguchi went to the battle field many times and tried to confirm with his own eyes the vulnerable people.
“Take this child back to Japan.”
In the refugee camps in the Middle East, people came to be called beautiful people = Jamila with friendliness.
I am Masao Adachi, a film director who accompanied Yamaguchi-san in the Middle East.
An interview record compiled with Mr. Yamaguchi later.
Mr. Yamaguchi said that he continued to ask the role that he should play.
Film director Masao Adachi “This is just the beginning, what is most impressive?”
“I'm not on the battlefield to heal my heart's wounds.
In order not to increase the wound anymore, it is already because it does not want to leave the wound when it escaped from the battlefield of the mainland China as a scar on the newly born battlefield. 

Film director Masao Adachi "I can feel immediately that she thinks that she was connected with the way of life of the times she had spent in China during the prewar days with her friends and people in China. like.
I felt that I really felt sympathy. "

Mr. Yamaguchi kept his eyes on the people who were obsessed with life in the war.
There was a person who worked with Mr. Yamaguchi in his later years.
I am Yasuaki Onuma, an international law scholar.
After the age of 70, Mr. Yamaguchi worked with Onuma to solve the problem of so-called comfort women.
Yasuaki Onuma, Professor Emeritus, The University of Tokyo “It ’s absurd why a woman of the same generation had to live a life that suffered such a pain.
I think I was very strong in encouraging and helping this person. "
Mr. Yamaguchi continued to interact with a former comfort woman by telephone and letter.
The movie that continued to regret having appeared was that “China no Yoru”.
A casual scene where Li Kolan plays with flowers on the riverside.
The woman who was a comfort woman at that time was visiting this shooting site.
A woman who went out of the comfort room and kept staring at Li Koran from a distance.
I told Mr. Yamaguchi in detail about that time.
Reiko Yamaguchi “I was singing a peach flower or something.
I heard that “I have a location of Li Xiang Lan” and I was watching as one of the detours.
It was a very different situation, and I thought I met you when it was hard. "
Two people who lived in a completely different position during the war.
The exchange continued until the former comfort woman died.
Mr. Yasuaki Onuma, Professor Emeritus, The University of Tokyo “It ’s a bit of a comfort woman, that sadness, I was hit by anger, and comforted me crying. I think it's okay, but it was done all the time, until it passed away. "

Reiko Yamaguchi Message to the next generation

Now, a class to learn about that era through a film by Li Xianglan is being held.
Japanese and Chinese youths talk about Yamaguchi's turbulent life.
Chinese student “Actually Chinese, I like Li Xianglan when I see comments on the internet.”
Chinese student “For me, I think it is a movie that beautifies Japan's invasion justification to China.”
Japanese student “In a sense, I really felt that it was really good, or that it was a good thing.
The life of 94 years of Reiko Yamaguchi.
In the record obtained this time, there was a word that should be called a will to the next generation.
Reiko Yamaguchi “It ’s different from life like us, where we were in the midst of war and full of contradictions. From now on, everyone, generations who do n’t know about war, will really talk about war, My wish is that we will face each other, so we can overcome it and make a true friendship. "

Living in turbulence

Guest Kenji Tanikawa (Visiting Professor, Waseda University)

● What kind of person was Mr. Yamaguchi?

Well, the first impression is overwhelmed by her energy.
Ordinarily, when I was 86 years old, I felt that it was a woman who had power, because it wouldn't be strange if it had withered, but that would make it difficult to do this.

● You said to the actress Li Koran that you can't forgive?

Perhaps, at that time, I wasn't thinking of anything just by reading the dialogue written in the script that was given to me.
I don't have the opportunity to see my own movie, it will be the next movie soon after the filming is over, just how much the role that I played later hurt the Chinese people I think the moment you noticed has come.
From there, it is likely that she was told by a Chinese reporter at a press conference at the end of the Li Xianglan period that she was told why.
I think that was the motivation that she had to fight for her sins in order to regain her original name, Li Xianglan, in her post-war life.

● After the war, the impression that the Japanese received when she appeared in a Hollywood movie, was it a shock for her?

Well, on the Broadway stage and playing the heroine in Hollywood movies, it's already a weird thing for a Japanese actress, but the role she played in a post-war American movie was That was something unacceptable to the Japanese.
Until now, during the war, China played the role of a woman who followed and followed Japan.
This time, the Japanese audience did not accept it at that time, acting as a woman who followed America.
That hurt her again.
However, her amazing thing is that she has made a lot of mistakes, and unexpectedly hurt people's hearts, but when she noticed the failure, she changed it into energy and changed her next action. I think that it is a place to make energy for.

● What are your thoughts and support for former comfort women?

It was in the previous VTR, and a comfort woman was among those who watched it at a long distance when I was on a movie called “China Night”.
That person has visited.
When I was filming, I didn't expect that person to see me at all, but I was a little afraid of being an actress, but at the same time, I was in the same generation as myself and had this terrible situation.
As soon as I realized that, I think I had the ability to act on my own.
It's so simple, ah, this is a bad thing.
So, what I can do to correct it was the logic of her actions.

● About Yamaguchi's message to the next generation that "I want you to make real friendship"

I think there are many young people, both Japanese and Chinese students, who have never thought deeply about history.
Show that old movie that she said, Manchuria is from a different point of view that people who lived there should have been such a world Seeing it and giving that opportunity.

I have to do that as a university faculty member, and I think that Mr. Yamaguchi wants to entrust him to future generations.
I think that I wanted you to continue that.

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